「 復旧に自治体主導の保険制度 」
『週刊新潮』 2004年11月11日号
日本ルネッサンス 第140回
新潟県を襲った中越地震は、日本のさまざまな断面をみせてくれた。そのひとつが旧きよき日本人の姿だ。
阪神・淡路大震災のときも、壊滅的な打撃を被った街で人々は助け合った。日本人同士だけでなく、日本人と在日外国人が少ない食糧を分かち合い、同じ焚き火で暖をとった。
今回の新潟県中越地震も同様だ。阪神・淡路大震災と同じく、震度は7。並大抵の衝撃ではなく、被害も尋常ではない。しかしそうした状況の下での自らを律する被災者たちの姿には胸に迫るものがあった。
10月23日夕方の地震発生で道路が寸断され、陸の孤島となった集落から、村民全員が徒歩で長岡市まで避難してきたケースがあった。この人たちの姿をテレビカメラがとらえていたが、まさに着の身着のままだ。杖を頼りに歩くお年寄りの腕を支えていた女性は、恐らくその家のお嫁さんであろうか。なかには米袋を担いでいた男性もいた。子供たちは小さな荷物を抱えていた。
道なき道を、薄をかき分け、地面に出来た深い割れ目を避けながら、この人たちはひとりまたひとりと、長岡市に通じる広い道に出てきた。歩く姿をカメラでとらえながら記者が尋ねた。その質問に村の人たちはこもごも語った。
「もう死ぬ気で歩いてきましたてぇ」「はぁ、もう、言葉では尽せねぇほどで……」「ようやく、ここまで皆で来ることが出来まして……」
こんな感想がひとしきり続いたあとに、記者は避難所に入ることについてどう思うかと問うた。避難所の床にはビニールシートが敷かれてはいるが寒さはしのげない。食糧支援も不十分だ。そうした中での避難所入りについて、村人たちは言った。
「有難いことですてぇ、本当にありがとうございます」
別の恐らく60代の女性は、別のカメラマンに質問されてこたえていた。
「いま、おにぎりをひとつ頂きました」
――今日はその他にどんなものを食べましたか。
「いまのおにぎりが、はじめての食事です」
――それでは足りないではないかと同意を求めるかのように尋ねた記者に、この女性は穏やかな微笑を絶やさず言ったのだ。
「いいえ、美味しかったです、有難かったです」
私はその画面に見入ってしまった。現在の日本に、まだこんなに奥床しい人たちがいたことに感動してしまった。陽光の加減から、おにぎりを支給された女性への取材が遅めの午後か早めの夕方であろうことは推測された。その時刻にその日はじめての食事として、おにぎりをひとつだけ支給されれば、皆が皆、あの女性のように穏やかな表情で丁寧にお礼を言うことが出来ただろうか。村民全員で命からがら逃げてきたとき、ビニールシート一枚の床に小さなスペースを貰ったことを、あの人たちのように、心から感謝することが出来ただろうか。
不平が出ても当然の厳しい状況で、彼女たちは表情の穏やかさも言葉遣いの奥床しさも失わなかった。こうした人々の姿こそ、旧きよき日本人の姿だったはずだと感じたのだ。
助け合う日本人の美徳
新潟県中越地震の中心地の小千谷は私の母の出身地でもあり、多くの親戚と級友たちが被災地に住んでいる。震度7の強烈さにもかかわらず、彼らは驚くほどの立ち直りを見せている。級友のひとりは、自宅が傾いたにもかかわらず、経営するガソリンスタンドを開業し24時間対応した。ガスも電気も途絶えたなかで、多くの人が車で寝起きせざるを得なくなり、暖房用にもガソリンが必要だからだ。彼は自分に出来る限りの人助けをしたいと言う。
小千谷市の山間部の過疎の村に住む従兄弟のひとりは、地震発生直後に、鉄骨製の広い車庫を宿泊出来るようにしつらかえて、村のひとり暮しのお年寄りたちはじめ21人を受け容れた。農家の建物がいかに大きく、丈夫でも、若い人たちが極端に少なくなった家々で、ひとりでいれば震度7の揺れは大変な恐怖だ。従兄弟は、そんな村の人たちを全員、車庫に迎え入れ、炊き出しをした。
ガスがなくとも、稲の籾殻が格好の燃料となり、古い鉄製のお釜で美味しいごはんを炊くことが出来る。水道がこなくても、山々から清水が湧き出てくれる。道路は寸断され、電話も通じなくなった村で、彼らは肩を寄せ合ってすごした。
ようやく電話が通じたのは数日後だったが、従兄弟は元気そうな逞しい声だった。相互扶助の田舎のよさは、助け合って暮すのが珍しいことではなかったついひと世代前までの日本人の美徳である。
小千谷市内にいた別の従姉妹は、地震の瞬間、車が蛇行し、家がつぶれ、電柱が傾いたと語る。道路が割れ、車で進むことが出来ず、夫と二人で死ぬ想いで自宅に戻ったが、小千谷市内の有様はとてもひどくて、どこから復興出来るのか、途方に暮れるという。
国家レベルの相互扶助
今回の地震では約1,000戸が倒壊し、改修を要する家屋は8,400戸とみられる。被災者の住宅や破壊された道路、橋、下水道などの復旧が急務だ。だが、それは容易ではない。阪神・淡路大震災のとき、一時的に入ったはずの仮設住宅から抜け出ることが出来なかった人々が多くいた。家を建て直すのは容易ではないのだ。阪神・淡路大震災のときの住民の困窮を見て、兵庫県が「住宅地震共済制度」をまとめた。車でいえば自賠責保険にあたる制度である。被保険対象は全国の住宅と家財で、保険者は市町村とし、国と地方で団体、民間が共同出資して保険機構を作るのだ。
持ち家か公共の借家かを問わず、全員加入が原則で保険料は月額1,000円。これを固定資産税と同時に徴収し、地震などで住宅が壊されたとき、ささやかな住宅を建てられる最低限のお金、'96年当時の試算で1,500万円から1,700万円を支給するというものだ。
この制度を考えるに際して兵庫県は過去100年間の自然災害を調査した。その結果、1,000戸以上の住宅に被害をもたらした自然災害は24回、つまり約4年に1回発生していたことがわかった。そうした被害者に前述の保険料と補償で応じた場合、余剰金を積み増していった結果、100年後には34兆円の基金が出来る計算だった。つまりこの仕組みは十分成り立つのだ。
4年に1回、大規模被害を受ける国が日本である。どこにいても地震や台風を逃れることは出来ない。だから、この種の対策を皆で考えることが必要ではないだろうか。復旧は市町村の力だけでは到底無理である。中央政府が軸となって災害復旧の枠組みを構築することが必要なのだ。