『週刊新潮』 2010年1月14日号
日本ルネッサンス 第394回
2つの国が領有権を争う領土について、それぞれ主張を展開するのは当然のことだ。しかし、日本政府はまず相手国の立場を度し、日本の立場を十分に主張してこなかった。そのツケは北方四島にも竹島にも明らかで、主張なき無策は必ず、尖閣にも影を落とすだろう。
昨年12月25日に発表された高校の学習指導要領解説書では、領土問題としての竹島の記載が見送られていた。学習指導要領はほぼ10年に一度改訂され、解説書も更新される。したがって、高校教育では向う10年間、韓国と領有権を争う竹島についての教育が不徹底になる可能性がある。
川端達夫文部科学大臣は、解説書を公表した日の記者会見で「竹島はわが国固有の領土であり、正しく認識させることに何ら変更があるわけではない」と述べた。
氏は保守派の政治家であり竹島を解説書に記載することは、氏にとっても文科省にとっても既定方針だった。にもかかわらず、蓋を開けてみれば解説書は一変した。日本が竹島の領有権を諦めたととられ、歴史的な汚点となりかねない解説書は如何にして生まれたのか。
日本政府の領土問題に関する発言や外交姿勢の及び腰は自民党時代からのものだ。学習指導要領とその解説書に、領土問題として明記されてきたのは北方領土に限定され、竹島はまったく触れられてこなかった。
他方、韓国の竹島不法占拠は年毎に昻じ、いまや警備部隊が常駐し、電話線が引かれ、郵便番号も住所も定められている。竹島を所管する島根県は思い余って05年、「竹島の日」を設けた。韓国の反発は凄まじかったが、島根県の動きは、改めて、日本人に領土や国土についての教育の重要性を気付かせた。こうした中、新学習指導要領の中学社会科の解説書に竹島を「我が国固有の領土」と明記するかどうかの問題がまず、持ち上がった。05年のことだ。
火に油を注ぐ生半可な配慮
文科省の立場は明確だった。05年3月に中山成文科相(当時)が新指導要領に明記すると答弁。しかし、3年後の08年2月、新指導要領案が公表されたとき、竹島の文字は消えていた。理由は、反日政策を掲げた盧武鉉大統領の後に、李明博氏が登場し、竹島問題の主張を控えることがより良い日韓関係の構築につながると日本政府が期待したからだ。
学習指導要領の改訂は解説書の更新を意味する。韓国は日本への働きかけを重層的に展開した。08年5月19日、韓国外相は駐韓日本大使を呼びつけ警告した。7月、洞爺湖サミットへの参加直前に、李大統領が共同通信と会見して「日本の指導者たちが無理に(竹島を)載せることはしないと信じている」と牽制した。来日した大統領は、9日、福田康夫首相と立ち話形式で短時間会談し、慎重な対応を求めた。韓国大統領府は、大統領が「深刻な憂慮」を伝え、福田氏は「十分に分かっている」と答えたと発表した。
国内では文科省が「我が国固有の領土」と明記すべきと主張し、外務省は反対に見送りを求めた。そして結論は中途半端なものになった。
08年7月14日に発表された解説書には、「我が国固有の領土」という表現はなかったが、竹島について、「韓国との間に主張に相違があることなどにも触れ、北方領土と同様に我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要」と書き込まれていた。婉曲な表現ながら、初めて、竹島を領土問題として盛り込んだわけだ。日本の視点に立てば「竹島はわが国固有の領土」と書いて当然だが、そうは書かずに婉曲な表現をとったことについて町村信孝官房長官は、「日韓関係をぎくしゃくさせてはいけない」と説明した。
だが、このあと、日韓関係は「ぎくしゃく」どころか、大荒れとなった。李大統領は「断固たる措置をとる」よう指示し、柳明桓外相は駐韓日本大使を呼びつけて抗議し、駐日韓国大使を召還した。29日には韓昇洙首相が、首相として初めて竹島に上陸。30日には韓国軍が最新鋭戦闘機、F-15Kを含む大部隊を動員し「独島(竹島)防衛演習」を行った。
福田首相は解説書発表の直前まで、自ら文言をチェックし、韓国への配慮に努めたが、李大統領は8月15日に、「韓国が強い国になれば、日本が私たちの領土を不当に欲しがることもなくなる」と演説した。
日本が「竹島は紛れもなく韓国固有の領土です」とでも言わない限り、韓国側は納得しないのである。生半可な配慮は、むしろ火に油を注ぐ。
そして今回の高校用の学習指導要領解説書である。文科省は、大臣、副大臣、政務官の三役以下、中学用の解説書同様、竹島の記述は当然と考えていた。が、三役会議で提示されたのは、竹島を除外した案だった。
竹島の二文字が落ちたのは…
川端大臣が三役会議で、文科省としては不満だが、内閣の一員として上の決定に従うとの意思表示をしたのは、小沢一郎幹事長の訪韓時期と重なる12月中旬だと思われる。小沢氏は中国訪問後、12月11日夜にほぼ単独で韓国入りした。李大統領と2人だけの非公式会談の内容は非公開である。韓国側が通訳を務めたために、日本政府は小沢氏が何を語り、何を聞いたかも把握出来ていない。だが、その席で、李大統領がかねてより関心を示していた外国人参政権、天皇陛下御訪韓などとともに、高校指導要領解説書問題に触れた可能性は大きいと見るべきだろう。
したがって、小沢氏が李大統領の要請を受けて影響力を行使し、解説書の内容を大幅に変更させた可能性は少なくない。一方で、元凶は鳩山由紀夫首相その人だとも考えられる。首相は11月15日、シンガポールでのAPEC首脳会議で、李大統領と歩きながら短時間、2人だけの会話を交わしている。そのとき、李大統領が、「教科書の件、重要ですので宜しくお願いしたい」と述べ、鳩山首相が「分かっています」と答えていたことは取材で確認出来た。
小沢、鳩山両氏との会談が、解説書問題で12月の発表を前にした重大な時期であることを李大統領は意識していただろう。大阪生まれで日本人の感情の機微にも通じている大統領だけに、その説得が功を奏したと考えて、ほぼ間違いないだろう。つまり、最終的に竹島の二文字が落ちたのは、小沢、鳩山両氏かまたはいずれか、民主党トップの「政治決断」ゆえだったと考えてよいだろう。
自民党はそれでも竹島の二文字をどうにか書き込んだ。民主党はそれを水泡に帰しかねない決定をした。一方韓国では、12年からの中学社会の解説書で竹島について「日本が継続的に国際紛争に訴えようとする意図を分析し、領土を守る方法も考える」とし、生徒たちに具体策を考えさせるよう踏み込んでいる。
国益を害する点において、民主党外交の罪は重いのである。
『週刊新潮』 2009年8月6日号
日本ルネッサンス 第373回
沖縄の星雅彦氏が興奮気味に電話をかけてきた。
「昭和19年11月3日、那覇市で県民決起大会が開かれ『県民一丸となって戦おう、元気な者は皆戦おう。老人と婦女子は日本古来の伝統にのっとり、後顧の憂いなからしめるために集団自決しよう』と決議したと報道されています。この決議があったのなら、集団自決は軍命と関わりないことが明らかになります。この報道の根拠は何でしょうか」
星氏は文芸雑誌『うらそえ文藝』の編集長で、去る6月9日、日本軍の集団自決命令はなかった、だが沖縄のメディアはそのことを報じないと記者会見で語った人物だ。
沖縄戦で米軍の艦砲射撃が始まった後の昭和20年3月25日から28日にかけて、住民多数が自決、それは軍命だったとされてきた。しかし、それより4ヵ月以上前に県民大会で前述の決議をしていたとしたら、軍命説は覆されると星氏は言うのだ。
同決議を報じたのは05年9月号の『正論』だった。発言の主は梅澤裕氏。氏は集団自決を命じた本人とされ、同じく軍命を下したとされる故赤松嘉次氏とともに、大江健三郎氏から「罪の巨塊」「屠殺者」「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と非難された(『沖縄ノート』岩波新書)。
梅澤氏は集団自決など命じていないとして、大江氏らを訴えている。
私は、星氏に問われてすぐに梅澤氏に電話し、氏が4年前に語った県民決議について尋ねた。いま92歳の氏は電話口で実に詳細に語った。
「慰霊祭で2度目に沖縄に行ったとき、座間味にいた郵便局長の石川重徳さんから聞きました。昭和19年の明治節(明治天皇誕生日、11月3日)に、沖縄本島で決起大会が開かれた。集まったのは県長(知事)を筆頭に県庁の主要人物、市町村の長や助役、警察、消防の主だった人たちで、軍は参加していないそうです。そこでは、間もなく米軍が来る、働ける者は第32軍(沖縄軍)に協力しよう、しかし我々は日本人だ、老幼婦女子は自決して後顧の憂いなきようにしよう、となったそうです」
消えた『沖縄新報』
梅澤氏はさらに語る。
「決起大会では、サイパンの惨状を考えると、米軍が来れば沖縄はどんなことになるか分からない。だから身の振り方を決めておこうとなった。そのとき、当間という高齢の、日露戦争に行った人が壇上に飛び上がり、『ヤマトンチューはこういうときは死んだ、我々沖縄人もそうして死のう』と言った。出席者らは皆、同調して、決議になったそうです」
予告なしの問い合わせにもかかわらず、梅澤氏は4年前の発言について人物、日付、場所など、極めて具体的に語る。実体験でなければこうした詳細は出てこないだろう。
県民決起大会の件は当時発行されていた『沖縄新報』が報道したという。梅澤氏らは随分、その新聞を探したが未だ見つかっていない。
県民決起大会に参加した知事の泉守紀(しゅき)は、同年12月、沖縄が間もなく戦場になることを恐れて帰京し、そのまま戻らなかった。後任となったのが島田叡(ルビ=あきら)だった。
島田については、『明日への選択』(2009年3~5月号)で日本政策研究センター主任研究員の岡田幹彦氏が「沖縄の島守・島田叡」として詳報した。以下、岡田氏の記述を基に島田の足跡を辿ってみる。
島田が沖縄で過ごしたのは昭和20年1月31日の赴任から同年7月の自決まで、わずか5ヵ月余である。島田は沖縄県知事の後任の打診を即答で引き受けた。着任直後、同情的に問われ、次のように答えたという。
「私だって死ぬのは怖いですよ。しかしそれよりも卑怯者といわれるのはもっと怖い。私が来なければだれか来ないといけなかった。人間には運というものがあってね」
島田の赴任は沖縄軍司令官牛島満中将の懇請でもあったという。肝胆相照らした牛島と島田はやがて戦場となる沖縄から出来るだけ多くの県民を疎開させ、同時に県民の食糧確保を重要課題とした。島田は島民、とりわけ老幼婦女子の疎開に力を注いだ。結果、県民59万中22万余、本土に5万3,000、台湾に2万、戦場とならない県北部に15万の県民の疎開を実現した。
当時、県知事は大変な存在だった。特に官尊民卑の風潮が強かった沖縄では勅任官の知事は「天皇陛下も同然」だったと岡田氏は書く。そのような立場の島田だったが、気軽に地域の民家に足を運んだ。行く先々には、土地や家畜を気にして疎開を渋る人々がいた。島田は彼らを「それでも危ないから疎開した方が良いよ」と説得したというのだ。
島に留まった知事
米軍の圧倒的力に追い詰められ、船も燃料もすべて不足の状況下で、人々を説得し、わずか5ヵ月間で22万余を疎開させたのは驚きである。
米軍が上陸し戦闘が始まると、島田は壕で県政を行った。だが、壕内にとどまらず、砲火の下、各地に出かけて人々を指導した。空間を広げるため壕を掘る作業にも積極的に加わった。食事は皆と同じものだけを口にした。下着は必ず自分で洗った。村人が川や田で捕えた鰻や鮒、野菜などを届けると、少しだけ口にして、あとは「怪我人に」といって渡した。
6月19日、『毎日新聞』の支局長野村は沖縄脱出に当たり、島田に別れの挨拶に来て、言った。県民にはもう十分尽した、文官のあなたは本土に引き揚げてもよいではないか、と。すると島田は答えたという。
「君、一県の長官として僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ」
そして、自分ほど県民の力になれなかった知事は、後にも先にもいないと、嘆じたという。
玉砕を免れないであろう沖縄の知事職を、島田は誰かが引き受けなければならない責任だとして引き受けた。そして全力を尽した。しかし尚このように語るのは、県民全員を救いたいと心底願っていたからだ。
6月23日、牛島司令官が自決。沖縄は陥ち、県民を守りきれなかった責任をとって、7月、島田も自決した。敗れはしたが、最後まで沖縄と県民を守るべく文字どおり死力を尽した牛島、島田、そしてあの苦難の時に沖縄にとどまり、沖縄の人々と心を一にしたヤマトンチューを、沖縄の人々は忘れてはいない。
昭和26年6月23日、島田をはじめ戦没県職員468柱を合祀する「島守の塔」が全県民の浄財で建立された。除幕式と慰霊祭には島田美喜子夫人が招かれた。
岡田氏の綴ったこの「沖縄の島守・島田叡」は涙なしには読めない。牛島、島田両氏が軍と行政の長として指揮した沖縄で、梅澤氏ら軍人が住民に集団自決を命じたなど、あり得ないのだ。
『週刊新潮』 2009年7月16日号
日本ルネッサンス・拡大版 第370回
沖縄で生まれ育った上原正稔氏は、長年、沖縄戦を取材してきた。戦争という極限状況は、個々の人間の真の姿を、否応なく剥き出しにする。醜さとともに、至高の美しさも見せてくれる。その人間模様に魅せられて、上原氏は、ドキュメンタリー作家として戦争下の人間の行動を追ってきた。
沖縄戦の悲惨さが際立つ理由のひとつは、日本軍が、住民を守るどころか足手まといとして突き放し、死に追いやったとされてきたことだ。米軍上陸を目前にした1945年3月、日本軍が住民に命じたとされる集団自決である。
“集団自決の軍命”を最初に報じたのが『鉄の暴風』だ。50年に朝日新聞から、後に沖縄タイムスから出版されている。ノーベル文学賞受賞の大江健三郎氏は同書を基に『沖縄ノート』(岩波書店)を著し、集団自決は軍命だったとした。
沖縄生まれの上原氏は、軍命は当然あったと信じていたが、取材を通して軍命はなかったと突き止め、衝撃を受けた。氏は07年、沖縄の有力紙『琉球新報』での連載、「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」でそのことを取り上げようとした。すると、信じ難いことに「新報の方針に反する」として掲載を拒否され連載は中断されたのだ。
異論を封ずる琉球新報をはじめ、沖縄のメディアの異常さについて、氏は、小さな文芸誌『うらそえ文藝』第14号(09年5月刊)の星雅彦編集長(77)との対談で詳細に語った。続いて両氏は6月9日、記者会見も行った。
沖縄出身の言論人が、公式に記者会見で集団自決軍命説を否定したのは初めてだ。それだけでも報道する価値はある。だが、地元の2大紙、琉球新報と沖縄タイムスは完全に無視した。両氏の記者会見開催までの経緯を辿ると、沖縄のメディアが抱える欠陥とその偏向体質が見えてくる。
7月2日、両氏に那覇市内で会った。上原氏は沖縄の人間にとって、集団自決軍命説は「生まれたてのヒナ鳥が最初に見たものを母親と思い込む刷り込みのようなもの」だと語った。
「私は今66歳、沖縄に生まれ、アメリカ統治下で育ちました。ロングセラーを続ける『鉄の暴風』で刷り込まれた沖縄戦の印象は長年私の中に残っていました。集団自決の軍命は、当たり前のこととして、あったと。何の疑いも抱かなかった。曾野綾子さんが(73年に)『ある神話の背景』を発表して、軍命はなかったことを詳述したときも、そんな話が本当に成り立つわけがないというくらいにしか、読めなかった」
氏の沖縄戦の取材は80年代から始まり、83年には「1フィート運動」を立ち上げた。
「沖縄戦に関するアメリカの映像資料などを収集し、戦争の実態を伝えていく運動です。わずか5ヵ月で1,000万円が集りました。しかし、金目当てで活動に参加する人々の醜さも見た。反戦・平和運動とはこんなものかと嫌気が差しました」
氏は自分を反戦・平和の闘士と誤解してほしくないと強調する。戦争で人間が試され、千差万別の究極の物語が生まれる。その人間の姿に興味があると語る。
沖縄戦の取材を深めた氏は、85年、沖縄タイムスに「沖縄戦日誌」を150回にわたって連載した。
「戦時中のニューヨーク・タイムズの報道に関心をもち、米国の公文書館などで資料を読み漁り、沖縄に紹介したのです。当時、僕はまだ、集団自決は軍命だという前提に立っていました」
変化は突然やってきた。氏自身が渡嘉敷島を訪れたときだ。同島では住民300人以上が赤松嘉次大尉の命令で集団自決をしたとされていた。曾野綾子氏が丹念な取材で軍命説を覆したのも渡嘉敷島でのことだ。
「僕はグレンという米軍人の手記の内容を確認するために渡嘉敷に渡ったのです。そこで当時のことを知る数少ない生き残りの金城武徳さんと大城良平さんらから『軍命なんてなかった』と聞いた。心底、驚いた。
大城良平さんは自分の奥さんが自決しているんです。赤松大尉を問い詰めた大城さんは、住民を死なせるので機関銃を貸してくれと村の指導者が言ってきたが、赤松大尉が断ったことを知ったそうです。僕の先入観は真っ向から否定され、崩れていきました」
「沖縄の人々の責任」
実は上原氏は、このときの取材の成果を96年6月1日から同25日まで琉球新報で報じている。連載、「沖縄戦ショウダウン」には、赤松隊長の副官だった知念朝睦氏の言葉が、次のように引用されている。
「赤松さんは自決命令を出してない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」
軍命を否定した上原報道は意外にも、96年当時、なんの非難も受けなかった。
「むしろ、反応は上々でした。担当記者もよく調べたと言ってくれたほどです。けれど、人間は忘れてしまう。その後、大江氏に対する裁判が始まり、教科書の集団自決の記述が問題になり、軍命の有無が殊更話題になりました。そして、私は琉球新報の記者から再び沖縄戦の連載を持ちかけられました」
大江氏の裁判とは、座間味島で集団自決を命じたとされる梅澤裕元少佐らが、『沖縄ノート』の著者の大江氏らを名誉毀損で訴えた裁判のことだ。05年に提訴された同裁判は、大阪高裁が「元戦隊長らが直接住民に命じたかどうか断定できない」とする一方で、名誉毀損は認めない判決を下し、現在、最高裁に上告中だ。
上原氏は先の取材で、島の元住人、比嘉喜順氏から「赤松さんは人間の鑑。我々住民のために、一人で泥を被り、一切弁明することなくこの世を去った。赤松さんのご家族のためにも、本当のことを世間に知らせてください」と頼まれた。事実を知った今、赤松氏や梅澤氏を悪者に仕立て上げた沖縄の人々の責任は重いと、上原氏は感じている。真実を明らかにして、両氏の名誉を回復し、謝罪すべきだとも考えている。そんな思いもあって、上原氏は新たな連載の誘いを受け入れた。
氏は96年の連載で取り上げた集団自決軍命説を否定する記事も再度書くつもりだと、あらかじめ琉球新報側に説明し、連載のタイトルを「パンドラの箱を開ける時」と決めた。連載は07年5月26日に始まり、第1章は6月16日に終わった。第2章は翌週の6月19日から始まるはずだった。
「ところが、6月18日、琉球新報に行くと、担当の若い記者がとても怖い顔で、『上に来い』と。5階に行くと、別の3名の記者がいて、『これ(第2章の記事)はストップする』と言うのです。理由をきくと、『新報の方針に反する』『(96年の)沖縄戦ショウダウンの中身と同じじゃないか』と難癖をつけて掲載を拒むのです」
上原氏は、記者が週末に上京していたことを思い出した。「大江裁判」が継続中であり、記者は否定したが、彼が大江氏に会って相談した可能性もあると推測した。琉球新報との話し合いは1時間を超え、上原氏は4人に吊るし上げられたと感じて言った。
「こんなことでは、連載は続けられない。第2章を載せないのなら、他の章も含めて連載を止めるぞ」
記者が言った。
「ああ構わんよ」
上原氏が振りかえる。
「薄ら笑いを浮かべ、僕を見下すような視線でした。ここまでくれば売り言葉に買い言葉。僕はすぐに記者会見を開くと言った」
だが、翌日、記者が再度、接触してきた。
「上司の当時の編集局長にうまく折り合いをつけるように言われたのでしょう。彼は僕の長年の友人です。彼から、記者会見だけは止めてくれ……と頼まれ、僕は渋々、承諾したのです」
「掲載拒否」
丁度同じ時期、『うらそえ文藝』編集長の星氏も似たような体験をした。
「上原さんの連載中断の約ひと月後、私も琉球新報から原稿掲載を断られました。集団自決軍命説を否定する内容です。文化部の部長から『今回は掲載できない』と言われました。理由は『今の状況にあわない』という、それだけでした」
星氏は沖縄県の文化協会会長、県立芸術大学理事長、国立劇場おきなわの理事をつとめる人物だ。そのような人物が、今、軍命はなかったと公に発言しているのだ。
「私の場合は、なぜ、今まで公に発言しなかったかと、問われるべきかもしれません。なぜなら、もう40年も前、沖縄の本土復帰の前から軍命説に疑問を抱いていたからです。1960年代末に、『沖縄県史第9巻』の執筆を依頼され、沖縄戦の実地調査で『鉄の暴風』に出てくる地域にも足を運びました。そして発見したのは、『鉄の……』の多くの間違いでした。地名、日付。極めつきは集団自決を命じたとされる梅澤隊長が朝鮮人の慰安婦と一緒に死んだと書いていた。周知のように、梅澤さんは今もご健在です。梅澤さんが軍命を下したと証言した宮城初枝さんにも会いました。けれど、様子がおかしい。梅澤さんのことを問うと口を噤むのです。そのときから私は軍命を疑い始めたのです」
星氏は、或る日、『鉄の……』の取材者として活躍した太田良博氏に尋ねた。
「梅澤さんは死んだと書いてあるが、まだ、生きている。おかしいぞ」
「まぁ、そんなところもあるねぇ」と太田氏は苦笑いして、口を噤んだという。
「私は長い間、明確な発言を控えてきました。おだやかな表現で問題提起しただけです。にもかかわらず、琉球新報は掲載拒否です」
一方、連載中断で上原氏の言論を封鎖した琉球新報は上原氏に新しい接触を試みていた。中断から4ヵ月後、先の編集局長直々に、連載再開を依頼したのだ。但し、集団自決は軍命ではないと書かないという条件が、口頭で、伝えられた。
「僕はそこで突っぱねてもよかった。けれど、連載は数年間ということだった。僕の側にも伝えたい物語がたくさんあった。いつか真実を書くチャンスもあると期待した。また、連載再開の道筋をつけた編集局長をこれ以上傷つけたくない思いもあった」
こうして07年10月16日、「パンドラ……」は再開された。だが、連載は数年どころか1年も経たずにまたもや突然、終わった。「もう終わり」と告げられた氏は最終章の執筆に入った。
「僕は、最終回でどうしても集団自決は軍命ではなかったことを伝えたかった。一話完結。それでも編集者は書き換えを要求し、僕は突っぱねた。琉球新報側は社長を含めて協議したそうです。結論は、ボツ。ですから、連載は形としては終わっていない。最終回なら末尾に〈おわり〉と記されますが、いつものように〈火曜―土曜に連載〉となっています」
こうした経緯の末に、両氏は今年6月9日の記者会見に臨んだのだ。
取材対象を黙殺
それにしても、96年に上原氏の「軍命はなかった」という記事を報じた琉球新報が、今なぜ、軍命否定の報道を拒否するのか。上原氏が語る。
「05年夏に始まった大江、岩波裁判、07年に問題となった教科書検定問題で、沖縄タイムスと琉球新報は、一貫して軍命はあったという論調で報じています。それで私の記事を載せるのは具合が悪いと考えたのではないか。彼らの主張の根拠の完全な否定ですから」
これでは琉球新報は、自説を通すためには事実さえも握りつぶす新聞だと言われても弁明できないだろう。
「琉球新報も沖縄タイムスも、黙殺が得意技です。僕らの異論がなかったかのようにしようとしています」
と上原氏。星氏も彼らの陰湿な「黙殺」を感じている。
「私はこの三十数年来、琉球新報で3ヵ月に1回、『美術月報』を執筆してきました。ところが先の論文を巡って対立したあと、暫くたった去年3月、突然、『美術月報』の執筆から外されました。例の論文掲載を拒否した文化部部長が『星さんの文章は難しいから』と言ってきました」
沖縄のメディアの異論の黙殺は、本来なら取材すべき対象にまで及ぶ。大江裁判で原告の梅澤氏側の代理人を務める松本藤一弁護士が語る。
「沖縄タイムスと琉球新報は、大江氏と岩波書店を訴えた我々の裁判に関して、ひたすら我々の主張を否定するかのような報道をしてきました。しかし、提訴以来4年、彼らは一度も我々を取材していません」
松本弁護士は、沖縄のメディアはアメリカの統治下で日本離反政策の報道規制に慣れてしまったために、今も、日本を批判する言論が身についてしまっているのではないかと分析する。
集団自決の真実が余りにも無視され、不条理が横行する背景にメディアの問題があるのは明らかだ。
上原氏が、最後に、非常に言いにくいことだがと前置きして、援護金の問題について語った。
「集団自決の遺族の一部も援護金をもらっています。両親や親族を手にかけて、軍命だと主張し、戦後、億単位のお金を受けとっている。こんな話、恥ずかしくて、世界に通用しないですよ」
氏の言う「億単位」とは、定められた支給額のうち最高額の年額196万6,800円に、戦後の年数を掛け合わせたものであろう。
援護金が遺族の生活の一助となっていることを誰よりも知っていたのが今は亡き赤松氏だった。氏は、すべての不条理に関して一言も弁明せずに亡くなった。梅澤氏も沖縄の人々には心底、同情している。
メディアの役割はこうした事柄を事実に沿って報道することだ。だが、現実には上原氏や星氏は言論の場から排除され、活躍の場を奪われつつある。
一連の経緯について問うと、琉球新報は、上原氏の連載を一方的に中止したことはない、星氏の寄稿の不採用も本人納得のことで、集団自決報道はこれまでの「蓄積」と「裏付け」に基づいていると回答した。
沖縄タイムスは「検討中です」と、わずか一行の回答だった。この種の反省なき言論封鎖が沖縄の未来に影を落とすのだ。
『週刊新潮』 2009年3月26日号
日本ルネッサンス 第355回
韓国の対日歴史観を根底から変えるきっかけともなる本が出版された。ソウル大学経済学部教授、李榮薫(イヨンフン)氏の『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』(文藝春秋)である。
昨年7月、韓国で会ったとき、教授は『物語』の下書きともいえる『代案教科書』という本を、同僚の教授らと共同執筆したばかりだった。『代案』では韓国の歴史が事実に基づいて見詰め直されている。たとえば、植民地時代、日本の総督府は1910年から18年まで、農地調査を行った。そのとき、農地の4割を奪ったというのが韓国での通説で国定教科書でも教えられてきた。
だが、李教授らは、土地台帳を丹念に調べ、右の通説が事実に反することを証明した。こうしたことを筆頭に、韓国の現代史の真実を掘り起こした『代案教科書』に続いて、世に問うたのが、『大韓民国の物語』である。
『物語』で、李教授は、韓国人の歴史のとらえ方の尋常ならざる問題に言及している。とどのつまり、「歴史は人々の記憶」である。「一般大衆の過去の出来事に関する集団的な記憶」が歴史となっている。教授は、韓国においては、その集団的記憶が「特定の利害関係をもつ集団や政治家によって作られたり、操作され」てきたと、強調する。だからこそ、歴史家は集団的記憶にうずもれてはならないというのだ。「集団的記憶が政治的に企画され操作されうることを、史料に基づいて」証明し、集団的記憶としての歴史のいかがわしさを一般大衆に知らせることが、専門家としての責任だと、言うのだ。
韓国の歴史意識の問題の一例として、李教授は、金大中、盧武鉉両政権時代に、盛んに行われた韓国の近現代史への批判をあげる。両大統領と彼らをとりまく人々は次のように主張した。「先人たちの尊い犠牲にもかかわらず、(日本からの独立回復後)正義は敗北し、機会主義だけが蔓延(はびこ)った」、「日本の植民地時代に民族解放のための犠牲となった独立運動家たちが建国の主体となることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託したせいで、民族の正気がかすんだ」と。
親日は売国奴
日本の敗戦で後ろ盾を失った親日勢力は、今度はアメリカにすり寄り、民族分断を煽り、その結果、いまの南北分断があるというのだ。つまり、国全体で大韓民国の建国の歴史を否定しているのだ。
李教授は、この種の歴史解釈や集団的記憶の呪縛を解かない限り、韓国の健全な発展はあり得ないと、繰り返し強調する。
言うまでもなく、従来の反日歴史観に逆らうような李教授の歴史解釈は、大きな危険を伴う。韓国で確立されている歴史観は、日本統治の時代は、極悪非道の日本人の、善良なる李朝朝鮮への弾圧の時代だったという決めつけに余りにも色濃く塗り固められている。高校の国史教科書には「日本は世界史において比類ないほど徹底的で悪辣な方法で我が民族を抑制し、収奪した」と書かれており、「日本の悪辣な統治」を具体的に生徒に教えるとき、教師は「今にも泣きそうな顔になり」、「生徒も涙」しながら聞くという。だから少しでも、日本に理解を示せば親日的だという批判が飛んでくる。それは、「売国奴」のレッテルを貼られるに等しい。
だが、『代案教科書』は、思いがけずも、韓国でベストセラーになった。『物語』も幅広い支持を得た。それは偏った歴史に食傷した韓国人が、まともな歴史書に餓えていたことを示すものではないか。
但し、『代案教科書』同様、今回の『物語』も、従来の反日一色の歴史観を正すものとはいえ、それでも、日本に対しては非常に厳しい内容もある。たとえば、強制連行があったとして日本批判を展開する吉見義明氏に「多くのことを学」んだ慰安婦問題である。教授は、女性たちが連れていかれたのは、日本軍の強制ゆえではなく、女衒の働きが大きいこと、女衒に売ったのは主として家族だったこと、女性たちの中には大金を手にした者もいたこと、だが行動の自由は与えられておらず、「奴隷」のように働かされたこと、などを指摘。そのうえで女性たちの連行に直接関わっていなかったとしても、このような働き方をさせ、未成年の女性を醜業につかせた点について、日本政府は責任があると結論づけている。
2004年、慰安婦問題について、韓国に横行する乱暴な議論に反論したために、李教授は暴風雨のような非難を浴びた。教授が日本にも、韓国にも、両方に厳しいことを直言してきたことがわかる。
作られた反日歴史観
李教授は1910~45年の日本統治の時代の韓国人の集団的記憶は「収奪」の一言でくくられると説く。高校教科書では、先述のように総督府が農地の4割を奪ったとされ、加えて、生産されたコメの半分を奪い、650万人の朝鮮人を労働力として収奪し、賃金も払わずに奴隷のように酷使し、数十万の乙女を挺身隊として動員し、慰安婦としたなどと教える。
「このような教科書の内容は事実ではありません」、「すべて、教科書を書いた歴史学者の作り出した物語です」と李教授は断言している。
たとえば「コメの収奪」である。生産されたコメのほぼ半分が日本に渡ったのは事実だが、それは日本内地の米価が30%ほど高かったから移出(輸出)されたのであり、農民も地主も多くの所得を得たという。「朝鮮の総所得は増え、全体的な経済が成長しました。不足する食糧は満州から粟や豆のような代用品を購入して充当しました」「人口一人当たりのカロリー摂取量が減ったとは必ずしも言えないのが実情でした」と、専門の経済学の視点で解説するのだ。
輸出によって所得が増え、工業製品を日本から輸入。機械や原材料も購入して工場を作ることも出来た。大手の「京城紡織」のような会社がこうして作られたという。
日本が土地を収奪した事例は存在しなかったのみならず、むしろ土地台帳の関連資料が示すのは、総督府が土地所有の制度化において「公正」であったということだそうだ。
女子挺身隊と慰安婦が全く別物なのは、すでに日本では周知だが、韓国では未だに両者は一体だと思われている。教授は、市民団体や特定の政治目的を持つ団体が意図的言い替えをしているからだと指摘する。
経済の専門家から示された歴史の新側面は、現時点で政治学や社会学の専門家からは積極的な賛同を得ていない。だが、学術的な裏づけがあるために、無視もされていない。事実に沿った新しい研究を、よりよい日韓関係につなげていくべきであろう。
『週刊新潮』’08年11月13日号
日本ルネッサンス 第337回
第二次世界大戦末期の沖縄、座間味島で、守備隊の梅澤裕隊長は住民に集団自決を命じたのか。大江健三郎氏は、著書『沖縄ノート』で、渡嘉敷・座間味両島での集団自決は日本軍、つまり隊長命令によるものだと断定的に書いたが、それは真実なのか。梅澤氏らが、事実は全く逆であり、大江氏の記述は真実ではないと訴えた裁判は、10月31日、大阪高裁でまたもや請求を棄却された。
大阪高裁は、梅澤隊長らが「直接住民に命令したという事実に限れば、その有無は断定できず、真実性の証明があるとはいえない」とする一方で、「集団自決が両隊長の命令によることは戦後間もないころから両島で言われてきた。書籍出版のころ、梅澤命令説、赤松命令説は学会の通説で、各記述は真実と信ずるに相当な理由があった」とも述べた。
判決はさらに、「その後、資料で両隊長の直接的な自決命令は真実性が揺らいだ。しかし、各記述や前提の事実が真実でないと明白になったとまではいえ」ないとして、これからも内容を訂正することなく『沖縄ノート』の出版を継続することを認めた。
右の高裁判決に目立つのは深刻な論理矛盾である。裁判所では通じても、世の中に通用しない曲がった理屈である。常識的に考えて納得し難いのは、大阪高裁は、大江氏が断罪した梅澤隊長の集団自決命令は、真実性が証明されていないとしながら、では、一体、何が真実だったのかについて、真実を知る努力を、十分にしていないことだ。
昭和20年3月25日夜、座間味村の幹部5人が、壕のなかに梅澤隊長を訪ね、集団自決するから爆薬や手榴弾、毒薬を貰いたいと懇願した。対する梅澤隊長の対応について、大阪高裁は「玉砕方針自体を否定することなく、ただ帰したと認めるほかない」と断じた。
梅澤氏は、この点について繰り返し語っている。氏は住民らにこう言ったと主張する。
「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り、日本を守るためじゃないか」「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」と。
無視された新証言
大阪高裁は判決で「直接的な自決命令は真実性が揺らいだ」と認めながらも、梅澤隊長が繰り返す「自決するでない」と命じたとの右の主張は採用出来ないというのだ。なぜ、採用出来ないのかは明らかではない。さらに控訴審に提出された、梅澤発言を補強する新たな住民の供述も「虚言」だとして切り捨てた。
何が真実かを知るためには、新証言にも耳を傾ける必要がある。しかも、控訴審に出されたこの新証言は、大江氏の主張や記述を根底から否定するほどの内容である。
証言者は宮平秀幸氏。当時15歳、日本軍の伝令だった。昭和20年3月25日、村人たちが梅澤隊長を訪ねた夜、彼は梅澤隊長のすぐ側で、一連のやりとりを聞いていた。宮平氏が語っている。
「(村の助役が)『明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい』『すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている』などと言って梅澤少佐に自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めた」
「梅澤少佐は『そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ(住民を)自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ』と命じた」
宮平氏の記憶では、押し問答は約30分も続いた。最後に梅澤隊長が「おれの言うことが聞けないのか」と言って、弾薬類の提供を強く拒否したというのだ(『産経新聞』2008年2月23日)。
宮平氏の証言は前述した梅澤隊長の証言とほぼ重なる内容である。
自決するつもりで忠魂碑の前に集合した住民を、村長は已むなく解散させた。一夜明けた翌3月26日未明、宮平氏の家族7人は、梅澤隊長指揮下の整備中隊の壕に行き、自決出来なかったことを報告したという。すると中隊長の中尉は、「死に急ぐことはない。1人でも多く生き残るべきだ」と語り、保管していた玄米、乾パン、乾燥梅干しなどを宮平氏一家に与えたそうだ。
宮平氏は、「これらの事実を話す機会がなかったが、集団自決をめぐる教科書の記述が問題となり、真実を伝えておきたいと考えた」と語っている。
〝通説〟として逃げた司法
当夜の会話について残されているもうひとつの当事者の証言は宮城初枝氏の手記である。彼女は3月25日夜、梅澤隊長に会いに行った村の代表、5人の内の1人だった。彼女は手記で、その夜、梅澤隊長は「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と言ったと記している。
実際に自決するから弾薬がほしいと、梅澤隊長に頼みに行った本人の証言である。ここで明らかなのは、少なくとも梅澤隊長は弾薬も毒薬も渡さなかった、無論、自決命令も出してはいなかったということだ。
宮城初枝氏は、戦後、国の恩給や援助を受けるために、村人たちと厚生省(当時)の話し合いで、沖縄の人々の自決は軍命によるものだ、とすることになった、自分も座間味での厚生省の調査で梅澤隊長が命令したと偽りの証言をしたと言って、梅澤氏に謝罪した人物である。
こうした証言に虚心坦懐に耳を傾けることによってのみ、真実は少しずつ明らかになってくる。真実に近づくための一連の努力もせずに、司法が十分にその機能を果たし、責任を全うし、社会正義を実現することは困難であろう。
この裁判が決定的におかしいのは、争点がぼけてしまったことだ。本来は、守備隊長が住民に集団自決を命じたか否かが争点だったはずだ。
各種証言は「ノー」と告げている。裁判所も「(命令の)有無は断定できない」「真実性の証明はあるとはいえない」、つまり「ない」とした。にも拘らず、大阪高裁は、隊長の命令だったというのは当時の通説だったとして逃げている。通説だから、梅澤隊長らの名誉は毀損されていないという論理だ。
ここで思い出すのは、かつて論争された、「従軍慰安婦」の強制連行問題である。一連の調査資料は、政府や軍による強制連行を否定していた。しかし、『朝日新聞』などは、問われているのは強制ではなく時代の「強制性」だとして、論理をスリ替えた。それと全く同じスリ替えが行われている。
このような裁判官に日本の司法を任せていてはならない。その想いが不完全で頼りない面もある裁判員制度に、私が賛成するゆえんである。
『週刊ダイヤモンド』 2005年5月21日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 592
韓国政府も中国政府も、自国内の反日デモの背景に扶桑社の歴史教科書があると指摘した。“歴史の加害者の日本”がいまだに反省せず、“侵略を美化”して教えようとしていることに、中国人も韓国人も傷ついているという非難だ。
日本国内では、中韓両政府の主張に対して、特に「朝日新聞」が同調してきた。「朝日」は扶桑社の歴史教科書がよほど不満らしく、「こんな教科書でいいのか」(4月6日付)などの題で社説を書き、非難を続けてきた。
だが、きちんと読めば、同社の中学生用歴史教科書はなかなかよくできている。中韓両政府や「朝日」の糾弾とは裏腹に、その記述はきわめて妥当である。たとえば、満州事変のくだりである。同教科書は「1931(昭和6)年9月、関東軍は、奉天(ほうてん)(現在の瀋陽(しんよう))郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、満鉄を爆破し、これを中国側のしわざとして、満鉄沿線都市を占領した」と、日本側の非を認めている。
一方、日本を戦犯とした東京裁判については一ページを割き、以下のように記述している。
「国際法上の正当性を疑う見解や、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見があり、今日でもその評価は定まっていない」
事実はそのとおりであり、中韓両政府や「朝日」が非難する「日本の侵略を美化する」記述では、まったくない。軍国主義を肯定するおどろおどろしさもない。むしろ、東京裁判は国際法違反という立場から見れば、同裁判の違法性をもっと書いてもよいとさえ思う。それでも、扶桑社の教科書は、よくバランスが取れていると思う。
さらに、これまでほかの出版社の教科書があまりにも蔑(ないがし)ろにしてきた日本の歴史の本当に重要な部分を、扶桑社の教科書はていねいに書き込んだ。一例が、大和朝廷から律令国家の形成に至る聖徳太子の時代の記述である。わずか19歳で伯母推古天皇の摂政となった太子が、アジア諸国で初めて中国と対等な外交関係を結んだ経緯が詳しく書かれている。
「日出(いず)る処(ところ)の天子、書を日没(ぼつ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」と書いたあの有名な手紙は、隋(ずい)の皇帝煬帝(ようだい)を怒らせた。天子、つまり皇帝は中国ひとりに許された称号であるのに、波の彼方の東の小国が何を言うのか、という中華思想の怒りである。
だが、太子はひるまずにまたもや書いた。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」と。
「天皇」の称号の始まりである。天皇は天子であり皇帝であり、天子と比べても皇帝と比べても堂々たる対等の称号である。怒る隋にひれ伏すのではなく、再び、日本は対等であると書き送った太子の外交を、隋は受け入れ、日本国と天皇を認めた。
朝鮮半島(高句麗(こうくり))との戦いに臨もうとしていた状況下で、大国隋といえども、日本が高句麗に味方して隋に敵対する状況は避けるであろうとの太子の外交政策の分析が当たったのだ。小泉純一郎首相の信念なき対中外交とは雲泥の差である。こうして日本は、七世紀以来ずっと、中国と対等の関係を築き上げてきた。
時代を下って、「明治維新とは何か」の部分もおもしろい。「ある階級が他の階級をたおすという、ふつうの意味の革命ではありません。武士たちの望みは、日本という国の力をよびさますことだったのです」という文章をモーリス・パンゲの『自死の日本史』から引用し、明治維新は武士たちの自己犠牲によって実現した、世界に類例のない改革だったと教えている。
ここには歴史を学ぶうえで重要な、祖国に対する温かいまなざしがある。子どもだけでなく、親たちにも読んでほしいと私は感じている。