「 集団的自衛権、この好機を逃すな 」
『週刊新潮』 2013年10月3日号
日本ルネッサンス 第576回
集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の見直し時期が、年内から年明けにと延びた。慎重論の根強い公明党に自民党が譲歩したためだが、なぜこの好機を見送ったのか。日本にとって好ましからざることだ。
公明党はさる7月の参議院選挙にあわせて集団的自衛権行使容認に「断固反対」の強い表現を用いた。
7月6日のBS朝日の番組では、山口那津男代表が集団的自衛権行使を容認すれば「自民党が国民から拒否される。連立が可能かどうか、しっかり相談する」と述べ、連立離脱の可能性さえほのめかした。
7月21日、参議院選挙当日の夜半、自民圧勝ながら単独過半数には届かないという結果を受けて、私はフジテレビの選挙特番で山口氏に集団的自衛権について尋ねた。氏はこのときも「議論を深めることが大事」「国民の理解を求める」「慎重な議論が必要」とさまざまな表現で事実上反対はしたが、明確な反対理由を語ることはなかった。
山口氏及び公明党の発言を額面どおりに受けとれば、反対理由は国民が集団的自衛権行使に慎重だからという点に尽きるだろう。
8月29日にも氏は「世論調査で慎重論が示されている。国民の理解を求めるのは容易ではない」として、「年内合意」は難しいとの認識を示した。
だが、国民はそれほどまでに理解していないのだろうか。集団的自衛権問題は2001年の9・11のときに極めて切実な形で日本に突きつけられた。9・11を受けて米国がアフガニスタンのタリバン政権攻撃に踏み切ったとき、NATOは集団的自衛権を行使して米国と共に戦った。日本は憲法上の制約があるとして、テロ対策特別措置法を制定して、米国に協力した。
当時、散々議論され、同問題は10年以上前からわが国の直面する課題だった。が、山口氏らはそれを認めず、まだ議論が足りないという。
公明党の変化
国際情勢は現在のほうがずっと厳しい。当時は中国が尖閣諸島海域に侵出してくることはなかった。尖閣諸島を中国の核心的利益と呼ぶことも、公船を接続水域や領海に日常茶飯に入れることもなかった。自衛艦と自衛隊機に火器管制レーダーを照射する実戦さながらの挑発も、尖閣領海付近で日本の船を追い回すこともなかった。
それでもいま、私たちが見ているのは現在の中国の軍事力とその脅威にすぎない。想像力を働かせて10年後、20年後の中国の脅威を考えなければならない。中国は過去25年間に軍事費を約33倍に膨張させた。これからの10年、20年も類似の努力をするだろう。中国の脅威はどれほど強大になることか。現在の比ではない。
眼前の脅威に加えて近未来の脅威を考えれば、海保や自衛隊の実力を強化する必要性は誰にでもわかる。アジア諸国は各々単独では中国に対抗出来かねるために、価値観を同じくする国々が互いに守り合う体制が必要なのも自明である。ここに集団的自衛権の観念が生まれてくる。
国連が国連憲章51条で加盟国すべてに認めている集団的自衛権とは、「自国が直接攻撃されていなくても、行動を同じくしている国が武力攻撃された場合、これを自国に対する攻撃と見做して攻撃できる権利」だ。国連がすべての加盟国に認めている権利をなぜ、日本だけ、行使してはならないのか。
集団的自衛権についてどの角度から尋ねても、国民の理解が必要という十年一日の回答を繰り返す公明党をはじめ全政治家は、ならば、国民の理解を深める説明や国際情勢への注意喚起を行う責任がある。
そう感じていたら、危機意識を全く欠いてきたかのような公明党の主張が若干変化し始めた。9月10日、山口氏が訪問中のワシントンで記者団と懇談し、集団的自衛権行使容認に向けて、9月中にも安倍晋三首相と会って議論の進め方を話し合うと語ったのだ。
この間に、公明党側から一種不思議な説明もあった。選挙中に断固反対などと言ったのは、まだ国民の間に集団的自衛権の問題が十分に周知されていなかったため、注意喚起を促す強い言葉を用いた。いまは、もっと踏み込んで語るべき段階に至ったという説明である。山口氏を含めて他の幹部も発言しているのは、公明党の方針が変化したということであろう。
背景には、訪米先で会談した国防長官首席補佐官のマーク・リッパート氏が山口氏に「日本が集団的自衛権の行使を解禁して国際社会で積極的な役割を果たしていくことを歓迎する」と伝えた事情があると報じられた。
危ういのは中国のほう
山口氏だけでなく、集団的自衛権に反対する人々は、従来の憲法解釈との論理的な整合性をどう保つのかを問題視する。山口氏も9月10日、カーネギー平和財団で集団的自衛権の行使に公明党が慎重なのは、法理論上の疑問ゆえか、党の政策ゆえか、近隣諸国の反応を含めた政治的懸念ゆえかと問われ、ざっと次のように答えている。
日本政府がとってきた憲法解釈は精緻、体系的かつ強固なものであるから、見直すのであれば、それなりの議論が必要だ、と。
だが、この種の議論には殆んど意味はない。憲法は国家と国民の安全と安寧を守るための基本的枠組みを示したものだ。状況が変われば憲法も変えなければならない。有り体に言えば9条の解釈も66年の歴史の中で変化を遂げてきたではないか。
日本が集団的自衛権行使に踏み切れば、近隣諸国や同盟国が不安に思うと危惧する声もある。だが、中国だけを見詰めるのでなく視野を広げれば、米国もアジア諸国も日本の集団的自衛権行使をむしろ切望していることは明白である。
集団的自衛権行使の容認が必要だというと、戦争をする国になりたいのかと非難を投げかける人もいる。日本が尖閣諸島であれほど中国に攻められても慎重に対処している事実や、国民の考え方から見て、日本が再び戦争を仕掛けるなどということはあり得ない。戦争を仕掛けるとしたらむしろ中国である。
中国人の反日気運、政府批判を許さない一党独裁、大国意識、内向きになった米国を尻目に中国人民解放軍が暴走する可能性もある。中国にこそ暴走の条件が揃っており、本当に危ういのは中国のほうなのだ。
その中国に万が一にも暴走を許さない抑止力としての集団的自衛権を確立することの歴史的重要性を政治家は肝に銘じよ。公明党が長年積み重ねてきた真の平和路線を貫くためにも、いまは現実の厳しさを見て中国を冷静に分析し、集団的自衛権行使への反対論を取り下げることが大事であろう。